間違った慈悲を選びたい!
2010.12.16 |
人を相手にする仕事していると、究極の状態で判断しなければならないことが多いですよね!
こんな時、皆さんならどう判断しますか?
・お金が全く無く、電気もガスも止められている方が、空腹を訴えている。家族も近くにいない。近隣からはどうも敬遠されている様子。訪問したのは18時。
「自腹を切って何か食べるものを買って来ようかなぁ・・・・・・。」
・訪問すると、ひどく腰を痛がっている。受診した方が良いが、救急車を呼ぶほどでもなさそうだ。一人暮らし。頼れる家族はいない。山奥で交通手段もすぐには見つからない。訪問したのは17時少し前。
「自分の車に乗せて病院へ行くしかないかなぁ・・・・・・。」
・息子さんが急に怪我で手術をすることになった。家には認知症の母親が残された。翌朝4時頃に妹さんが来られるとのこと。息子さんの献身的な介護のおかげで、母親は穏やかに暮らしているが、とても一人にしてはおけない。今は、18時半。
「娘さんが来るまで、ここにいるしかないかなぁ・・・・・・。」
等など、やってはいけないと分かっていながら、やってしまったり、やろうと思ったり・・・。
そんな経験は、対人援助をされている方なら誰でもあるのではないかと思います。
先日の事例検討会でも、援助者として(プロとして)やってはいけないと認識しながらも、やってしまった事について悩んでいるという内容の事例が提供されました。
その検討会の最後に、あるメンバーの方が
「正しい無慈悲よりも間違った慈悲を選びたい。」という言葉を言われました。
これは、人間同士の援助関係の中では、決して制度や決まり事、常識では線を引くことのできないことがあり、間違いと分かっていても、人間としての良心に従うべき時があるということを言われたのだと思います。
プロとしての心構えは絶対に大切です。しかし、時として人間としての本能(優しさ)がそれを勝ることがあります。
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そのことを改めて思い出させてくれた言葉です。本当に感謝しています。
それと同時に、事例を出された方が、きちんと自分の行った援助について振り返りをされている謙虚な姿にもひどく感動を覚えました。
ちなみに、「正しい無慈悲よりも間違った慈悲を選びたい。」という言葉は、ここにあるマザー・テレサの言葉を参考にされたようです。
不親切で冷淡でありながら奇跡をおこなうよりは、むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたい。
どちらの言葉も、本当に心に響きます。 |
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